モノレール


写真:JR全日本

ドリームモノレール完成

1966年4月28日、走行区間では、当時県下最長(5.6キロメートル)の
モノレールが国鉄大船駅~横浜ドリームランド(俣野町)間に完成した。
ドリームランドの傍係会社ドリーム交通が、総工費25億円をかけて
建設したもので、いままで、バスで15分かかっていた同区間が半分の8分に短縮された。車両は跨座式の3両固定編成で、定員は198人。
アルプスを走るアロー・ライン型モノレールにならって先端の頭部が
つき出た赤・クリーム・紺色の三色のスマートなスタイル。
コースも変化に富み、大船観音わきの森林地帯から小雀浄水場を
地上30メートルの空中から見おろしながら、東俣野町の森林をぬけてドリームランドにはいる。
晴れた日には伊豆、箱根、富士丹沢の連峰を眺められ、また
千分の百という急こう配か所もあってスリルとスピード感もあった。
しかし、残念ながら42年9月より運行が中止となり、今はその走る姿を
みることはできない。
40万人の40年史 戸塚 / 横浜市戸塚区役所/編 / 横浜市戸塚区役所 1980年より

電気車の科学 1966より 線路図と概要。

モノレールのチケット

(横浜の鉄道物語 長谷川 弘和 2004より引用)

★休止後の主な動き
69年ごろ 71年頃に再開を検討に向けて企画書が作成される。
82年 ドリーム交通、ドリーム開発(モノレール事業)とドリーム交通(別会社、バス事業)へ経営譲渡
88年 ダイエーと業務提携
95年 リニアモーターカーでの再開検討
01年 モノレールでの再開検討
~10月 ドリームランド閉園決定
02年 正式に廃止が決定。翌年より撤去工事開始。
ちなみに『東芝式跨座型モノレール』はドリームランド線と
奈良ドリームランド内にあったアトラクションのみであったらしい。

リニアモーターカー(HSST)導入に関する記事。
89年の横浜博覧会時、中内会長が搭乗したことがきっかけとされる。
環境調査等も行われ、かなり具体的な話だったが・・・。

横浜博覧会89’にて日本初公開のHSSTの様子(1989年)


大船駅~ドリームランド駅間橋脚撮影マップ

跡地散策に最適です。(2003年9月撮影)


大船駅バス乗り場案内図とモノレール駅地図

あったものはあった。(2002年閉園後撮影)

ドリームランド駅


閉園直後のモノレールドリームランド駅とドリームランド周辺の橋脚の様子(2002年)
写真:シェルポのブログ

桜に囲まれて。(2003年撮影)

モノレールの代表的HPはこちらにリンクさせていただいています。


★その他、文献など

ドリームランドとモノレール

せんそうが終わり、平和な時代になりました。
昭和30年ごろになると、世の中がだいぶ落ち着き、けいざいも発てん
していきました。
そういうときに、ドリームランドの初代社長となる松尾さんは、子どもたちにゆめをあたえるものをつくってやりたいと考えていました。

松尾さんはアメリカのディズニーランドのひょうばんを聞き、さっそく見学に行きました。
かれはそのすばらしさにかんどうし、このようなものをぜひ日本にも
つくってみたいものだと考え、すぐ場所えらびにかかりました。

決定したのが奈良市とこの俣野町です。

松尾さんはドリームランドに一つの考えをもっていました。
それは「子どもに楽しさを、おとなには明日へのかてを。」ということです。この考えについて、げんざいドリームランドそうむ部長の野村さんは
次のように話してくれました。
「今までの遊園とはのり物中心で、おとなも子どももつかれる遊園地でした。そこで先代社長は、ディズニーランドにならい、のり物を全面せきの
半分くらいにして、その他は広いスペースに緑やベンチをおきました。
おとなも子どもも、のんびり楽しめるものにしたいと考えたのです。
当時は、ようやく、けいざいが発てんしてきており、お父さんは仕事で
つかれることがふえてきたこともあって、そう考えたのでした」
工事は昭和38年に始まり、1年のとっかん工事で翌39ねんにかんせいしました。
その後、いろいろな事じょうで、ドリームランドをせまくしなかれば
ならなくなりました。外しゅう列車をなくしたり、遊園地の
およそ半分をけずりドリームハイツけんせつにあてたりしました。

モノレールは、ドリームランドにお客さんを運ぶ目てきでつくられ
昭和41年にかんせいしました。
しかし、重量オーバーできけんということがわかり、1年後にストップしてしまいました。
げんざい、通勤用にモノレールを走らせてほしいという住民の声が
ありますが、野村さんの話によりば「しょうらいモノレールを
通すという方向で検討しております。しかし復活までには、いろいろ
考えなければならないむずかしい問題が残っています。」ということです。
げんざいのドリームランドは、はじめのころとはちがって、のり物中心になっています。野村さんは「お客さんがスリルあるのり物をもとめるため、今後ものり物中心でやっていきますが、ふ近の住宅のことを考え、音の出ないものにしていきたい。また水族館など教育しせつも考えています。」と話していました。

わたしたちのまち / 横浜市立俣野小学校創立10周年記念事業実行委員会  より 1985

ドリームランドモノレール

ドリームランドが開園した翌年1966年5月に開業した。
現在の俣野公園と横浜薬科大学の中間にあるバスターミナルの周辺に
「モノレールドリームランド駅」は存在した。
線路距離は5.3km、大船まで10~15分
「跨座式」というレールが下にあるタイプ
当時のモノレールは未来的な夢の乗り物であった。
橋げたの亀裂と車両の重量オーバー
車両は16トンも重量オーバーしていた。
開業翌年の9月に営業休止
廃止が正式に決定したのは30年以上経った2002年
ドリームランド閉園の年であった。
数年前までは一部の橋脚や軌道が残っていた。
なお、同じ遊園地のモノレールとして 年に誕生した向ヶ丘遊園モノレールは閉園2年前まで30年以上営業し、大船と江ノ島を結ぶ湘南モノレールも
1971年に開通後今も現役である。
戸塚区制70周年記念写真集 短命に終わった夢のモノレールより 2009

DREAMBOX
はまれぽ

ドリームランドの生涯

横浜ドリームランドは、東京オリンピックが開催された1964年、8月1日、農地であった横浜市戸塚区俣野町に開園したテーマパーク型高級遊園地です。
3年前に開園した米ディズニーランドをモデルとした奈良ドリームランドに対し、横浜ドリームランド(以下、ドリームランド)ではデンマークのチボリ公園をモデルに取り入れています。


横浜ドリームランド完成予想図 実業界 1993

開園頃の様子(宮廷庭園付近)
バッキンガム宮殿をモデルにした正面の入り口にはイギリスの衛兵が立ち、広く美しい宮廷庭園に大きな噴水がある、子供だけではなく大人も寛げる夢の国でした。
また、ドリームランドは従来の遊園地ではなく、日本人と日本に来た世界の人々の親睦の場所、教育や平和の場所を目指して創られました。
日本の偉人の銅像や模型、世界の観光館等が建ち、自衛隊の訓練や日本の防衛設備を紹介した「防衛博」を開催するなど、戦後の日本の発展を世界に伝える役割をもった場所でもありました。

翌年1965年には、日本で最初の超高層建築である五重塔式21階建てのホテル「エンパイア」が併設され、宿泊施設やボウリング場、プールなど娯楽施設を伴う遊園地の先駆けにもなりました。
更に翌年の1966年には、最寄の大船駅からドリームランドまで観光客の足となるモノレールが開通されました。
しかし、このモノレールが設計ミスにより約1年間で休止となります。
休止後、幾度も再開計画が立てられましたが、実現はしませんでした。
駅から離れたドリームランドは交通アクセスが良いとは言えず、入場者数が減り、次第に経営困難となりました。
そこで敷地の一部が売却され、ドリームランドの周りには住宅地ができました
1970年代には園内に地域住民に向けた商店街や娯楽施設を併設するようになりました。

1980年前後になると、360°回転コースター「シャトルループ」の国内初導入を皮切りに、若者向けにターゲットを転換します。
宮廷庭園が無くなり、同じ場所にはミュージックエキスプレス、パイラット、チックタックなどの絶叫マシンが取り入れられました。
この頃からドリームランドは、親睦や平和のテーマパークではなく、一般的な遊園地として毛色を変えていきました。

83年に東京ディズニーランドが開園すると、ドリームランドは日本風を意識した、露店や大道芸など、縁日のような家族向け、子供向けのイベントを園内で実施するようになり、晩年のよく知られた姿となっていきました。
自然が豊かで、人と人とのつながりや温かみのある、地元住民に愛された素晴らしい遊園地でしたが、
テーマパークやレジャーの多様化、新しい時代の波に押され、2002年2月17日に閉園となりました。

開園・閉園に関する新聞記事など

 

————以下、ドリームランドについて書かれた書籍の要約など————

一面が麦畑であった広大な農地が、遊園地「横浜ドリームランド」に
生まれ変わったのは1964年8月。東京オリンピックの2ヶ月前だった。

当時国内トップクラスの一大娯楽施設で、ホテルやプール、
ボウリング場、テニスコートなどもあった。

アメリカのディズニーランドを模倣した奈良ドリームランドでは、
子供が中心で大人が遊ぶには物足りないという欠点があり、
横浜ドリームランドでは約49万㎡の敷地にチボリのような欧米の遊園地を模倣し
遊園地のほかホテル、プール、テニスコート、ゴルフ場、ボーリング場などを
あらゆるレジャー施設を完備した。
立地条件を悪さを解決するために大船駅および小田急六会駅より
モノレールを敷いて客の誘致を図ることとした。
俣野町で農業を営む戸塚家では、用地として三反(約30アール)
の農地を提供した。六代目の戸塚榮一さんは当時21歳だった。
「『夢の楽園』という言葉がぴったりでした。
俣野町が一気に脚光を呼び、明るくなった。土日は渋滞で原宿方面へ
行けないほど。ホテルエンパイアが大人気で、21階の回転レストランは
いつも満員でした」
ホテルエンパイアとは、開業翌年に竣工した県内初の高層建築物。
この技術が霞ヶ関ビル(東京都)にも反映されたという。
仏塔を思わせるオリエンタルなデザインが特徴的だ。
アトラクションで人気だったのは、高さ75メートルの大観覧車
「ワンダーホイール」や潜水艦。衛兵パレードも珍しかった。
「丘の上の大観覧車からは、それまで知っていた景色とは全く違う眺めが広がっていた。
この観覧車は誇るべきものだと思いました」

1970年代に入ると、敷地は一部売却され、団地が建設された。
1983年、東京ディズニーランドが開業すると衰退の一途をたどり2002年に閉園。
現在、敷地の東側は横浜薬科大学キャンパスになり、ホテルエンパイアは建物をそのまま生かして図書館棟として利用されている。
西側は私立俣野公園と市営墓地になった。

戸塚区制70周年記念写真集 2009年より
実業の日本 1963年より

 

1993年当時(2代目コーヒーカップ付近)

戸塚区の東端、俣野町にあり、北側は泉区和泉町と接している、
昭和39年8月2日に開園した総合レジャー施設で、開園当初から
家族連れで賑わっている。面積は約132万平方メートル。
写真に見える大観覧車はワンダーホイールといい、可動式のゴンドラ
があり、最大高所75メートルからの眺望は最高である。
その他にもシャトルループ(ジェットコースター)、トップスピン、パイラット、レインボーなどスリルと迫力満点の遊戯施設や、プール(夏期)、スケートリンク(冬期)もあり、県の内外から家族連れや若者が遊びにやって来る。
同41年4月、ドリームランドへの便をはかり、JR大船駅とドリームランド間
5.3キロにモノレールが完成したが、翌年9月には運行停止となった。
しかし、平成8年には運行が再開されるという
開園時間は午前10時~5時半までで、1日中楽しむことができる。
また園内にある、ホテル・エンパイアは非常に目立つ和様建築風の建物で、戸塚・泉・栄のどの区からも人目を惹く。

戸塚いまむかし 写真集 1993年より