横浜ドリームランド吹奏音楽隊

取材ご協力(2017年9月)
現在もドイツ風ブラスバンド演奏会など、音楽活動をされている、横浜ドリームランド元音楽隊トランペット奏者のアルテ・カペレ練習日記様よりお話を伺いました。1978年8月~86年7月在籍。

  • 横浜ドリームランド吹奏音楽隊とは
    音楽隊は営業企画課・公演係(イベント部門?)という部署の職員。ドリームランド園内で、土日祝日をメインに衛兵の衣装で1日3回、演奏パレードを行っていた。ドリームが出来た当初は、音楽隊は2編成存在し、2つに分けたコースで演奏していたらしい。
    パレード行進中は演奏のほか、メジャーの合図で様々な動作(回れ右、左、右向け、3列を2列、2列を3列に変更など)をパルテノンゲート付近の入り口の出入り時などで行った。
  • パレードで演奏していた音楽について
    現在のテーマパークのような曲と振り付けの決まったパレードではなく、毎回違う楽曲で、別のコースを歩く。毎回60曲以上ある楽譜の中から5曲/1回(ファンファーレ、君が代など除く)を選ぶ。楽譜は1ヶ月に最低2~3曲、多いときは10曲以上が新曲に入れ替えられる。
    基本は1曲目マーチ、2曲目歌謡曲(立奏)、3曲目マーチ、4曲目歌謡曲(立奏)、5曲目マーチの構成である。
    楽曲は当日メジャーが決め、楽堂の黒板に書かれる形で発表される。
    9時半出勤、朝礼は10時、早くても10時過ぎ、遅くても1回目のパレード開始(11時)の30分くらい前には書かれるが、ギリギリの時もあった。楽堂の楽譜棚に60曲くらい入っていて、そこから楽譜を探して準備する。15分前に合図の笛が鳴って準備するから、焦って探す夢を今も見る。頻度が多い曲はあったが、1日の中で曲が重なる事はなかった。
    パレード行進の途中で2回立奏するシーンがあり、そこでは当時流行っていた歌謡曲を演奏する。(こちらも毎回違う曲)立奏で使用していた譜面はミュージックエイトから刊行されていたもの。
    形は衛兵バンドだが、演奏内容は遊園地や娯楽向けの曲であり(本来の衛兵バンドはトランペットじゃなくコルネット)イギリス作曲の曲はほとんどなかった。行進曲もアメリカだったり・・・
    曲のレパートリーが多く、暗譜は難しいので譜面を見ながら演奏する。
    譜面はコピーされた楽譜に厚紙を貼って作った物。立奏で使用するミュージックエイトの曲はパレード用五線紙に手書きした楽譜を作っていた。途中(79年頃)から音楽隊の絵の上手な人たちが1つ1つ手描きのイラストの譜面立てカバー(ドリちゃん柄)を作ってくれたものを、楽器に付けて演奏していた。
    雨の場合は少しでも降っていたら中止になった。途中で降った場合はコース短縮になる。(突然土砂降りになったこともあった)
    しかし風の場合は、どんなに強風でもなくならなかったので、夏用帽子が飛ばされたり、譜面が飛んでなくなったりすることはよくあった。

    84年頃まで音楽隊と横浜バトンという女性バトンチームが毎回一緒(2~3人、多いときは5人程)に行進していた。歌謡曲を録音したテープを横浜バトンに渡し、振り付けを覚え本番ではステージ立奏の際に合わせて踊る。
    (渡すのは水曜または金曜日で翌週の土曜が本番)20周年を最後になくなり、その後のパレードは音楽隊のみになった。

    • 人数・編成など

    1番多いときは25人くらい少ないときは11人くらいの編成の時もあった。だいたい16~20人のパターンが多い。
    (ブログを引用)楽器編成はピッコロ1人、クラリネット3人、アルトサックス1人、テナーサックス1人、トランペット3人、トロンボーン3人、ユーフォニウム1人、スーザフォン1人、打楽器3人 合計17人(ホルンのいない編成)入社時の78~84年は、ホルンのいない構成だったが85年からはホルンのエキストラが入った。

    アルテ・カペレ練習日記様作成の音楽隊(1980年当時)を再現したフィギュア。
    メジャー1人、ピッコロ1人、フルート1人、クラリネット3人、アルトサックス1人、テナーサックス1人、トランペット3人、トロンボーン3人、ユーフォニウム1人、チューバ(スーザフォン)1人、スネアドラム1人、バスドラム1人、シンバル1人 計19人
    左上は実際の譜面の縮小コピーで、人形1つ1つが小さな譜面立てを持っています。

    正社員以外は音大のエキストラ(東京音大、国立、武蔵野、洗足など)で来ていた人が多い。
    その場でメジャーとパートリーダーが教えるOJT方式。ただ楽器が好きとか上手いだけでは出来ない。楽譜の初見が出来るだけでなく、パレード時の動作(気を付け、休め、進め、止まれ、回れ右、右向け右、左向け左)楽器の上げ下げなど多くの決められたサインを短時間で覚え、それに合わせて動かなければならない。(度胸やその場の変化に対応出来る強さが重要)最初はものすごく緊張するし、歓迎演奏で一度も吹けない人も居た。
    しかし常連で来ている人もたくさんおり、音大生のときから解散日まで音楽隊として勤めた人もいた。
    83年に本家ディズニーのバンドのオーディションがあり、転職した人もいたが、ドリームよりずっとハードで1日7回本番(当時)があり、雨天決行であったという。(雨の日もアーケードのような所で演奏)
    暗譜はもちろん、本番の間に練習があり、同じアドリブをやると怒られるので、転職後にドリームに遊びに来た際もアドリブをずっと考えていて大変そうだった。

    • パレードコースについて

    パレードコースはそのシーズンや年によって変わる。前述の通り、1日3回あり、同じコースを1日のうちに通ることはなく、曲の内容も同じではない。
    開始時間は11時、13時半、15時。1回30分程度で15分前に笛が鳴って着替えて曲を準備する。
    ※パレードの一例(1984年4月29日(祝) 開園20周年記念パレード(11時の回)の場合)
    コースはドリーム銀座前、駐車場横から、正面入り口でファンファーレと君が代演奏。噴水の前を一周、パルテノンで立奏、大海賊の方を向かい、野外ステージで立奏、ドリーム銀座をくぐり抜けて終わる。1回約30分。
    (ドリーム銀座を通過する場合と通過しない場合がある)


    地図はドリームランド・メモリーズより『昭和59年版地図』を拝借。

    • 団体客の歓迎演奏 

    団体客などが来ると、歓迎の立奏が行われた。
    場所はパルテノンゲート(宮廷庭園は人気のスポットだった)が多かった。準備が早くできた場合は正面ゲートや宮廷庭園内の噴水前、園内にお客さんが散らばったときはパレードに変更など流動的に変えていた。
    当時は何時頃に到着するか連絡の手段がなかったので、団体が来ると、おそらく駐車場から電話がかかってきていた。遠足や修学旅行など子供の団体客が多く、アニメの曲などを演奏した。
    修学旅行(地方中学・高校など)は夢のホテルなどに泊まって東京観光・江ノ島・鎌倉などに行くのに都合が良いのでドリームランドに遊びに来ることが多かった。
    団体数が多い日は、パルテノンで演奏し、次の団体客が来るまでパルテノン横の事務所(後のスーベニアショップとどんぐり共和国⇒迷子センターの建物?)で待機していた。朝からお昼近くまで演奏することもあった。

    • パレード・歓迎演奏以外での活躍

    野外ステージでは、外部のショーなど催物が多く、その前座などでよく演奏していた。
    エンパイアの中での演奏、裏庭(小さなステージがあった)のビアガーデンなどでもパレートとは別の衣装での演奏を選抜メンバーで行った。
    期間限定的な簡易ステージ(期間限定で園内のいたるところに作られた。)を広場各所に設置し『板付』と呼ばれる椅子に座っての演奏を行った。夏には毎日花火の前にパルテノン前での板付があり、84年には選抜メンバーが生演奏をした。
    木下大サーカスが来た際は、春日神社の前の駐車場にテントを立てており、その中でも演奏したがとても暑かった。パチンコデール前やドリーム系列のパチンコ屋(大和、上永谷)の前で新台入れ替えの際の演奏などもあったが、開店すると並んでいたお客さんは最後まで聴かずに店に入ってしまう。

    • 出張演奏について

    音楽隊はドリームランド内だけでなく、都内、横浜近辺でよく出張演奏を行っていた。昔の話では新潟に2週間出張したらしい。
    基本的には楽堂に朝集合し、前の道にバス(ドリーム観光バスやマイクロバスなど)を止めて楽器を運び入れ、出張先に向かっていた。出張演奏時も15~20人くらいの編成で行き(分かれてやることは出来ないため)、出張演奏とドリームランドが重なった際は出張演奏を優先していた。
    毎年出張演奏では横浜みなと祭り(ゴールデンウイーク)に出ていた。神奈川県警の音楽隊や消防などと一緒の出番の日であった。

    新宿サブナードが完成した時は、伊勢丹方面の階段に整列して、西武新宿方面側にむかって行進した。地下街ですごく音が響いた。
    ドリーム内ではパルテノン神殿を上る階段が数段あったが、階段を通る際は演奏しない振り付けになっているが、サブナードの際はイントロ以外は階段を降りながら吹かないといけなかったので怖かった。

    • 音楽隊の音楽以外の仕事

    音楽隊は楽譜係、消耗(品)係(隊員は消耗係と呼んでいた)、衣服係、楽器係などに分かれていてどれかを担当していた。夏服は最初は白地に水色でパン屋さんや床屋さんのようなデザインに見えて不人気だった。
    衣装係になった際、夏服のデザインをする機会があり、夏服のデザインが採用され、
    その衣装は音楽隊最終日まで使われた。赤を基調とした上着(半袖)と、白いズボン。
    (冬服は黒いズボン)帽子も赤で、ツバがついたもの。メジャーの人は白い帽子。
    メジャーの帽子だけは、最後まで使われている物と一緒であったようである。
    ステージや、楽堂内の譜面棚、バスドラムのカッティングシート、譜面立ての加工などは全て修理部門(メンテナンス班)が作成していた。

    • 音楽隊の楽堂とは

    楽堂はシャトルループの裏にあたる園外の建物。駐車場の細い道を挟んだ前。(パレードコース地図参照)
    シャトルループができる前は、同場所(ちびっこ動物園だった)の裏に繋がる専用出入り口から楽器を運び入れ、
    歓迎演奏を行っていた。楽堂自体もさらに昔は少し場所が違ったらしいが、建物ごと移動した。
    (※
    60年代の住宅地図だとハイツになった真裏に詰め所が確認できるが、78年当時の楽堂はシャトルループ裏より少し奥の位置から、数十メーターの建物ごとの異動があったとのこと。開園当初、音楽隊が2編成だったということもあり、詰め所が2箇所存在したり、引越しも数回あったと思われる。)

    2002年の楽堂の様子。音楽隊解散後はこちらの会社が入っていたようだ。沿革にも記載されている。

    ▼楽堂内 間取り図(※クリックで拡大)



    20人以上の隊員で練習が出来るよう、広く大きな造りになっている。
    2段高くなっているスペースの一番後ろがパーカッション(太鼓部屋前横にドラムが1台固定されていた)スーザフォン、チャイムなどが置かれていた。チャイムは重いので演奏の際に使う音だけ運んだりした。

    ● 隊列
    ▼隊列の一例(※クリックで拡大)


    出勤人数、扱える楽器が毎日違うので、パレードの隊列(並び順)も、楽曲と共に朝黒板に書かれる。
    隊列は基本3列で先頭はトロンボーン、中央がスネアドラム、バスドラム、シンバル、前方クラリネット、後方トランペット、最後尾がスーザフォン。ピッコロ、フルート、アルトサックス、テナーサックス、ユーフォニウムはその時の隊列に合わせて変わるが、アルトサックス、テナーサックスは後方の場合が多かった。上記のような中央にパーカッションが入る構成は81年頃までであった。
    (当時のほとんどのバンドはこのような構成であったが、ドラムの音で合わせにくいためにその後最後尾に変わったと推測されるそうだ。)

    ※楽堂の間取り、隊列の例に書いた数字は1番奏者、2番奏者・・・の意。パレードの際1番奏者が横3列の中央に入り、立奏の際は観客側に移動し主旋律が聞こえやすいようにしていた。メジャーの合図で回れ右、観客手前から1番、2番、3番奏者となるように位置を変える。

    解散
    89年8月31日に正規の音楽隊は解散になった。
    内々的なことであり、一般告知はされていない。(しかし、最終日曜日(8月27日)の演奏は台風で中止になり、実質は前日の26日だったと思われる。)お客さんには一見わからないが、解散後の音楽隊が出るイベントはその都度エキストラバンドなどを呼び編成していたようだ。
    音楽隊は音楽隊としか交流しない人がほとんどであったし、音楽隊としてのみをやっていた公演係はこれ以降ほとんどいなくなったが、別の部署に異動になってアトラクションを動かすスタッフになった人もいる。
    ちなみにヘイヘイおじさんは当初ワンダーホイール担当だった。

    音楽隊時代の数々のエピソードは、アルテ・カペレ練習日記様のブログ記事をご覧ください。
    ※編集予定あり。

    ⇒取材その2を追加しました。



    楽譜も入れていた、当時のドリームランドの封筒。

音楽隊2


(首都圏の遊園地 1988年より。※横浜バトンが写っていることから84年以前の写真と思われる。)

1975年~89年における元ドリームランド吹奏音楽隊お二方の取材(談話)です。※取材において誤認識、記憶違い等がある可能性もありますのでご了承ください。
※コアな話が多いので、70~80年代のアトラクションと、音楽隊の記事を踏まえた上で読むと理解しやすいと思います。

●音楽隊の最後の日・・・
 平成元年、8月27日(日)、台風。この日以降平日の演奏業務はなかった。前日は某高校吹奏楽部のトレーナーとして合宿先の千葉県岩井海岸にいた。当日、東京湾フェリーで浜金谷から久里浜まで朝一の便だけ動いたのでなんとか戻ってこれた。最後だったから絶対行こうと思った。集まった人は何人もいなかった。結局パレードは中止のまま終わってしまった。
 8月に解散としたのは、おそらく夏休みイベントの(花火など)の関連。夏の営業が一区切りだからだったと思う。5時半で勤務時間終わった後、皆でファミレスに行った。最終時に正社員はほとんどいなかった。(2名だったかも?)

●パレード、園内演奏・・・
 立奏はそのときのお客さんがたくさん居るところにとまってやるようにしていたので、その時の状況で変わった。野外ステージで何もないときは、潜水艦の方でやっていた。ショー中に立奏してあまり近いと音が被る。
1984年4月29日11時のパレードについて(唯一写真があるのでパレードコースとして紹介しました)は、ドリーム銀座の中を通り終わるが、ドリーム名画座前で終わる時もあった。(前述のパレードのコースでは、シャトルループ前を通っていないが)シャトルループ側に行く回もあったり、30分間の中で収まるようにコースが決められた。追いかけてくるのは小さい子供だけだった。

 音楽隊には日直が2人(正社員が少ない時は1人)居て、楽堂の鍵の管理をする。交代で昼食をとったり、パレードの時には最後に楽堂を出て、最初に戻らなければならない。
業務日誌なども書いていた。その日の天候や楽曲やメンバー、出来事など。今見たらおもしろいかもしれない。
 10時の朝礼のほか、終礼もあった。終礼後や公休日にも楽堂で練習しに来る人がいた。楽典や和声、聴音などの講義も楽堂で行っていた。
黒板に曲名を書き出すのは10時すぐの時や10時半、もっと後になること(最初のパレードは11時開始)もあった。毎日メンバーが違うため、パレードの隊列(並び順)が黒板の右側に書かれていた。
 長く拘束されるときもあるし、歓迎演奏(幼稚園、珠算連盟とか)の時は30分くらいで終わるときもある。その日によっていろいろ。団体が複数有る場合は、パルテノンの横(西側、後のスーベニアショップ)で待機したり、東側(どんぐり共和国⇒迷子センター)の事務所で待機したりした。
ちなみに奈良ドリームランドとは姉妹遊園地だが、別組織のように全く繋がりが何もなかった様に感じた。奈良にも音楽隊があったはずだが、楽譜のやりとりなども一切無く、交流もしたことがない。

 70年代は野外劇場(ステージ)での立奏はなく、80年代に入ってからだった気がする。野外ステージは歌手やタレントが使うためのものだった。
 当時、公演があったタレントさんですごく人気があったのは天地真理、中森明菜など。バックバンドでスマイリー小原とスカイライナーズが来ていた。
 アイドルや芸能人などのイベントの時はあまり参加しなかったが、イベント(着ぐるみショーなど)が有るときは前座で野外ステージで、立奏をやることもあった。
 ドリームでもタレントは使っていて、初代イメージガール(85年)岡村有希子とは交流があった。また、イメージガールではなかったが当時のアイドル、能瀬慶子は楽堂まで音合わせにきていた。
 環境が悪い中で演奏しているので、ミスをしてもどうしようもない状況もあった。
 1つの譜面を予習する時間は数分くらい。最初の人はすごくきついが、実学的な訓練のような物で、慣れると強くなれる。時間がなさ過ぎて、パレードの演奏時に楽譜初見という事もあった。
 歓迎演奏の時に貧血になった人も居たり、パルテノンの柱にU-ターンの時にぶつかったり。危険なこともあった。70年代、冬の板付けで、スケートリンクの外側で演奏した。吹きさらしでものすごく寒かった。その後の冬の板付はシャトルループ前になったが、やはり北風が強く、寒かった。
 パレードの中で、各楽器演奏しないタイミングがあるが、スネアドラム(小太鼓)は最初から最後まで休みがない。行進する時も、立奏の位置につくときもずっと叩いてなければならない。パーカッションは通常。スネアドラム、バスドラム、シンバルの3人であり、81年ごろ?パーカッションが4人揃った時、ティンバレスを使っていた時期があった。しかし、ハーネスが重く腰に負担がかかるため、ティンバレスは使われなくなり、4人そろったときはテナードラム、スネアドラム、バスドラム、シンバルを使用となった。
 また、イギリス衛兵パレードは本来はチューバだが、ドリームではスーザフォンを使っていた。歩きながらの演奏だから、違う楽器を使わざるを得ないこともあった。
 クラリネットやトランペット担当が一人になってしまった時も何度かあった。
 マーチだけで60曲(定番曲 雷神、ワシントンポスト・・・など)、歌謡曲は新しいのがどんどん入る。演奏技術は必要だが何よりも体力仕事だった。
 夏場は金土日で土日は花火、パレードは毎日あった。夏は朝9時半までにタイムカードを押し、帰りは(ナイター営業なので)9時を過ぎる。
 楽堂にはエアコンがないので、みんな体力温存のためにリポDなどを飲み、楽堂の涼しいところにゴザを敷いて寝ていた。内輪で「まぐろ」と呼ばれる現象である。
 エンパイアのビアガーデンは夏の平日に行われていて30分ごとに3回くらい演奏をした。夏休みだが、お客さんはあんまり居なかった印象(3~4組くらい)
 就業後、夜な夜なファミレスで盛り上がった。あの辺りのファミレスは制覇している。本当に楽しい時間を過ごした。たばこ吸ってる人は少なかった。

●出張演奏・ロケなど・・・
 75年以降は泊まりでの出張演奏はなかったと思う。それよりずっと前は、新潟に2週間遠征したという。神奈川県内が多かった。横浜みなとまつりは必ず行っていた。
戸塚駅の野球場の試合のオープニングの入場行進などにもよく行った。立ちっぱなしでしびれて行進が出来ずに転んでしまった隊員も居た。
 藤沢のまつりでは、櫓にぎゅうぎゅうに乗せられて落っこちそうになった。
県外遠征は津田沼のイトーヨーカドーオープンセレモニーが一番遠かったと記憶している。名物司会者、八木次郎が来ていて挨拶した。薗田憲一とデキシーキングスとは楽屋が一緒になった。
ドリームランド内の収録ではフランキー堺、島田陽子なども見た。
 後楽園プールでやった、堺正章の歌番組「ザ・トップテン」では真夏なのに冬服を着せられてパレードをやった。岩崎ひろみのデビューくらいの頃だった。
 テレビ東京の収録では午前さまになり、ドリームランドまで戻った人はそのまま朝を迎えたらしい。
 サブナードオープンで地下街を行進した際は植木等と大地真央が先頭にいたと思う。
 渋谷の公園通りを練り歩いた時は2時間パレードで5~6曲を繰り返し3周行った。へとへとなのにその後2~3曲の音取りもした。テレビには10秒くらいしか映らなかった。 
 ホームセンターのダイクマ(後にヤマダ電機に吸収合併。)のオープンには必ず行った。
 歩道の上をパレード。刑事ドラマ系の役者の人(轟謙二?)が必ず来ていて良く挨拶した。社長との繋がりだったのかもしれない。画像や映像はその会社の広報なんかに残っているかもわからない。
 松竹の大船撮影所というのがあって、そこでも演奏した覚えがある。映画のシーンを撮るためだったかもしれない。また、ビートたけしの映画で音楽隊が出ているものがある。数秒だけ出ていた。
 日本の映画の中にはドリーム自体たくさんあるはずだから、音楽隊のシーンもあるはず。撮影は数え切れないほどあったから、園内全体を撮影しているものは少ないかもしれないが、テレビ局には映像がたくさん残っていると思う。
 音楽隊はドリームの一つの売りだったが、個人的な写真はネット上にも見当たらないので、ほとんど残って無いのかもしれない。

●衛兵・・・
 衛兵は正面入り口で、交代式や国旗掲揚をやっていた。30分交代で、2人ずつ交代するから4~5人以上居ないと成り立たない。
 皆アルバイトだったが、最初は社員も居た。20周年パレードでは参加していたが、その時(1~2年ほど)だけの再結成だったと思われる。夏休み以外は、土日祝日のみと記憶している。よく分からないが、曲がるときに「ビューティ・オブ・ザ・ハッtp!!!」などと叫んでいた。

●横浜バトン・・・ 
中高生の子が4~5人くらいでやっていて、84年まで音楽隊と一緒に行進していた。立奏のときはメジャーの前で踊っていた。

●シフト、給与体系など・・・
 最初は、正面門の右側に事務所(平屋)があり、タイムカードを押しに行っていた。
途中からはドリームビル(浜銀)の上に総務が移り、1Fの横浜銀行の横にドリームのタイムカードが置いてあった。春日神社の宮司さんもタイムカードを押していた。
 昔は現金の入った給料袋を手渡しだった。途中から給与明細書(振込み)になった。隊長室に呼ばれて一人づつ楽堂でもらっていた。振込みは基本的には横浜銀行。
皆勤賞だと1万円?ボーナス上乗せがあり退職金も出た。全社員共通だと思う。
通勤手当は最初は1ヶ月に1回、途中から半年に1回。エキストラは日当払いで、日当は毎年上がっていた。

これがドリームランドの給与明細だ!ワンコ<「ご苦労様でした。来月もがんばりましょう。」

 エキストラは朝礼で点呼を受ければ雨で中止でも、歓迎演奏で1回で終わった日でも日当は出る。音大の学生が集まる職種なんて滅多に無く、当時の大学生2倍くらいのバイト代にあたる。アルバイトの立場からすれば、行った回数分だけ給料が入り、とてもよかった。雨でパレードや歓迎演奏が中止になった場合は、午後合奏練習を行うこともあった。
 アルバイトはクラリネットと打楽器が多く、他はほぼ社員だった。募集ではなく、人繋がり(大学の友人など)で来ている人が殆どだった。女性は社員で2人、エキストラは4人くらい。クラリネットが多かった。
園内の映画館(ドリーム名画座、松竹系列)には顔パス(音楽隊です、と言えばOK)で入れるし、雨の日は点呼を受けた後に見に行った。外部業者の運営だったお化け屋敷だけは入れなかった。中止と思って遊んでいたら、呼び戻されて午後のパレードをやるときもあった。
 従業員食堂は朝昼晩やっていて、寮の社員は全て利用できる。バイトは朝礼点呼の際に昼食券を貰う。食券は1000円で5円、10円、50円、100円の券の組み合わせの綴りのものがあり、食事の際昼食件と必要額の食券を渡して食事をもらっていた。従業員食堂の場所は宮廷庭園の右(東)側だが、ラブスクエアになり、駐車場が出来たので、途中ですこし手前に移動した。

●異動や役職など
 ヘイヘイおじさんは最初ワンダーホイールにいて、ラブスクエアができて暫くしてから異動になっていたと思う。夫婦でワンダーホイール担当だった。
 音楽隊のメジャー担当は、解散後にボウリング場に異動した。

●寮について・・・
 当時のドリームの社員寮はホテルドリームランドの裏側に位置するほうの建物を利用していた。(70年以降、元の社員寮がハイツの土地になってしまったためと思われる)寮費は1ヶ月5000円。
 早出する時は、通いの人も寮に泊まっていた。音楽隊は2階だった。
 基本的に2人部屋。何年か経って部屋に空きができた場合のみ1人住まいが許される。そのため部屋を自分たちで仕切って使っている人もいた。
 寮官さんがいて、事前に布団を申請して隊員の誰かの部屋に泊めてもらった。社員用のお風呂はホテル裏の外にあった。夏のパレードは毎日なので1ヶ月ぐらい泊まっているエキストラもいた。
 社員の半分は寮にいた。かなり地方が実家の社員も居た。ホテルの1階にブローニュの森という喫茶店とゲームセンターのようなも一角もあった。国道沿いにあるようなコインスナックのゲームコーナーみたいな小さなものだった。

●ドリームからディズニーへ・・・
 公休日がディズニーランドのバンドの試験の日で行った人が受かって転職したが、大変そうだった。雨の日でも関係なく、演奏が日に7回あって、着る衣装も回によって替わる。頭が働かなくなると、間違えたりするという。

●衣装について・・・
 最後の夏服衣装を作ってくれたのは「東京衣装」。(現在の東京衣裳かもしれないが定かではない。)
仕事場が石神井公園にあり、以前からの専属契約だったのかもしれない。バレエの衣装などを作っていて、バレエの公演の劇場で打ち合わせしたりもした。

 衛兵の帽子はで熊の皮で、1個5万円(当時の値段)もすると聞いた。

●ドリームランドの歴史を振り返って・・・
 39年、東京オリンピックのちょっと前に開園だった。
 ドリームランドにあった、ファンファーレトランペットについて、オリンピックのファンファーレトランペットを保管しているHPの人に聞かれた。特殊な物だった。同一で自衛隊にも納品されていた物と同じだったようだ。
ドリームは初期に「大防衛博」などもあり園内でレンジャー部隊の訓練を見せていたりしたようで、自衛隊とつながりがあったというウワサもあるが、当時の単なるイベントの一つで関係があったとは思い難い。松尾國三(社長)の政治力かもしれない。
 松尾國三(社長)は正月、春日神社は必ず参拝に来ていた。(ちなみに松尾社長の命日は1月1日だ。)
その関係で有名な役者さんも多く見た。80年ごろ、元フジテレビの露木アナウンサーが、(多分)松尾社長の胸像を作ったときに来ていた。シャトルループ導入記念には確か、杉良太郎が来ていた。

当時のアトラクション、施設などのエピソード
●ちびっこ動物園・・・
(開園当初、東奥にあったこどもの国は、ハイツ建設後に正面入り口方面の西側、後のシャトルループの場所に一時期異動していたようだ。)
 動物園というよりは、飼育スペースのような小規模なもの。小さいペンギンが5羽くらい、ヤギ、うさぎ、チャボみたいな鳥、クジャクがいたのを覚えている。大きい動物はいなかった。動物園の外周をミニ列車みたいなのが走っていた(おそらくお伽列車の移設)。
 また、小さな池があった。楽堂に一番近い出入り口がそこにあるので、歓迎演奏の時は池を横断して楽器を運んでいた。その際に隊員が池に落ちた。
 70年代頃は、歓迎演奏の時にその出入り口を利用していたが、シャトルループ建設後は、外側の道路をまわっていた。出入り口は非常時用として普段使われなくなったが、そこから入って怒られている一般客を見た。

●シャトルループ・・・
 シャトルループはドイツ人技師が来て組み立てていた。最初の試運転では、土嚢を乗せていた。回転するときに土嚢が落ちていた。次に音楽隊が乗るように言われた。
 開始当初は3時間待ち。失禁するお客さんが出てきて、下着売り場が出来た。券売所のような丸い形の建物だった。

●スーパードリーム・・・
(もと円形レストランの)スーパードリームは78年には既にあった。○の中が全部スーパーで、2Fはホームセンターのような感じ。

●ドリーム銀座・・・
 70年当時、既に空きが多かった。パルテノンで立奏しているとき、向かいにあるドリーム銀座の看板に「あなたの夢をよみがえる」と書いてあったのがずっと変だと思っていた。助詞の使い方がおかしい。

●マイカート(後のドリームレーサー?)、ラジコンカー、ラジコンシップ・・・
 大海賊の西側に並んでいた小さな遊具郡。オーバルコースで、子供用のゴーカートみたいな物。ラジコンカーも、同じようなコースにラジコンが並んでいて、敷地の大きさは似たような感じ。住宅地図では横に長いが、縦長(南北に長い)のようだった気がする。
 ラジコンシップは潜水艦の池を利用していたと思う。

●その他アトラクション・・・
 遊具はワンダーホイールの周囲に凝縮してたくさんあった印象。ワンダーホイールの下にポニーが居て、子供を乗せてワンダーホイールの下を一周させていた(左回り)。
コーヒーカップは既にプールの横にあった(コーヒーカップの完成は82年以降ワンダーホイール裏の、ティーカップの記憶はない。)
 ジャングル船は78年以前には晩年位置で営業していた。(70年代前半完成か?)
錯覚を利用した部屋があった。ビックリハウスかもしれない。人気が無かったと思う。野外ステージ周辺では後から出来たトランポリンが目立っていた。
 大海賊横を通る、お伽の城周辺は道が細くて普通の人は行かない。パレードでも通らないのでほとんど覚えていない。(シャトルループ建設後にちびっこ動物園やお伽列車が再移設した場所だが・・・)
正面入り口入ってすぐの、絵の看板はかなり前からあったと思う。ドリラン人形のベンチは86年以降だと思う。
 ドリーム神社80年代初期ごろはなかったと思う。小さい鳥居はあった気がするが、移動したのかもしれない。あと、小さな祠のような物があった気がする。
 宮廷庭園の階段を降りる手前にはいろんな偉人の胸像があった。東郷平八郎とか。
 80年ごろ、松尾社長の胸像ができて(前述)セレモニーを行った。パルテノンを入った奥の突き当たりにあったような気がする。松尾社長の建ってる全身銅像も正面門を入り、宮廷庭園に降りる端っこにあった。最初の写真だと噴水の上にあったようだが移動したのだろう。今見るとアレみたいだ。
 80年代の遊具の割合はちょうど良いと感じていた。閉園時の園内では建物が多すぎてパレード行進はできないと思う。

●その他、思うこと・・・
 モノレールが成功さえしていればやはりその後の展開が全く変わっただろう。今も営業しているかもしれない。裁判だけが長引いて、ドリームが保証しろと言うことがあって、東芝はすぐ直す言っていたらしいので直してもらってたら良かったのに。
 解散後のパレードは、どうしていたのかわからない。大学のマーチングなど、普段やっている人はできるかもしれないが、ただイギリスの衛兵のイメージでやっていたので、マーチングパレードだとアメリカスタイルになってしまう。(夏服などの期間限定衣装などでは、衛兵風でないバージョンもあったが)
大変なこともたくさんあったけど、今ではすごく楽しかった。
 もしドリームランドの音楽隊が今でもあったらということをいつも考えるが、ずっと続けていたのではないかと思う。

※10月17日加筆修正。隊列の例、衣装については追記予定


※あくまで非公式的に読んでください※