横浜ドリームランド吹奏音楽隊

取材ご協力(2017年9月)
現在もドイツ風ブラスバンド演奏会など、音楽活動をされている、横浜ドリームランド元音楽隊トランペット奏者のアルテ・カペレ練習日記様よりお話を伺いました。1978年8月~86年7月在籍。

  • 横浜ドリームランド吹奏音楽隊とは
    音楽隊は営業企画課・公演係(イベント部門?)という部署の職員。ドリームランド園内で、土日祝日をメインに衛兵の衣装で1日3回、演奏パレードを行っていた。ドリームが出来た当初は、音楽隊は2編成存在し、2つに分けたコースで演奏していたらしい。
  • パレードで演奏していた音楽について
    現在のテーマパークのような曲と振り付けの決まったパレードではなく、毎回違う楽曲で、別のコースを歩く。毎回60曲以上ある楽譜の中から5曲/1回(ファンファーレ、君が代など除く)を選ぶ。楽譜は1ヶ月に最低2~3曲、多いときは10曲以上が新曲に入れ替えられる。
    基本は1曲目マーチ、2曲目歌謡曲(立奏)、3曲目マーチ、4曲目歌謡曲(立奏)、5曲目マーチの構成である。
    楽曲は当日メジャーが決め、楽堂の黒板に書かれる形で発表される。
    9時半出勤、朝礼は10時、早くても10時過ぎ、遅くても1回目のパレード開始(11時)の30分くらい前には書かれるが、ギリギリの時もあった。楽堂の楽譜棚に60曲くらい入っていて、そこから楽譜を探して準備する。15分前に合図の笛が鳴って準備するから、焦って探す夢を今も見る。頻度が多い曲はあったが、1日の中で曲が重なる事はなかった。
    パレード行進の途中で2回立奏するシーンがあり、そこでは当時流行っていた歌謡曲を演奏する。(こちらも毎回違う曲)立奏で使用していた譜面はミュージックエイトから刊行されていたもの。
    形は衛兵バンドだが、演奏内容は遊園地や娯楽向けの曲であり(本来の衛兵バンドはトランペットじゃなくコルネット)イギリス作曲の曲はほとんどなかった。行進曲もアメリカだったり・・・
    曲のレパートリーが多く、暗譜は難しいので譜面を見ながら演奏する。
    譜面はコピーされた楽譜に厚紙を貼って作った物。立奏で使用するミュージックエイトの曲はパレード用五線紙に手書きした楽譜を作っていた。途中(79年頃)から音楽隊の絵の上手な人たちが1つ1つ手描きのイラストの譜面立てカバー(ドリちゃん柄)を作ってくれたものを、楽器に付けて演奏していた。
    雨の場合は少しでも降っていたら中止になった。途中で降った場合はコース短縮になる。(突然土砂降りになったこともあった)
    しかし風の場合は、どんなに強風でもなくならなかったので、夏用帽子が飛ばされたり、譜面が飛んでなくなったりすることはよくあった。

    84年頃まで音楽隊と横浜バトンという女性バトンチームが毎回一緒(2~3人、多いときは5人程)に行進していた。歌謡曲を録音したテープを横浜バトンに渡し、振り付けを覚え本番ではステージ立奏の際に合わせて踊る。
    (渡すのは水曜または金曜日で翌週の土曜が本番)20周年を最後になくなり、その後のパレードは音楽隊のみになった。

    • 人数・編成など

    1番多いときは25人くらい少ないときは11人くらいの編成の時もあった。だいたい16~20人のパターンが多い。
    (ブログを引用)楽器編成はピッコロ1人、クラリネット3人、アルトサックス1人、テナーサックス1人、トランペット3人、トロンボーン3人、ユーフォニウム1人、スーザフォン1人、打楽器3人 合計17人(ホルンのいない編成)入社時の78~84年は、ホルンのいない構成だったが85年からはホルンのエキストラが入った。

    アルテ・カペレ練習日記様作成の音楽隊(1980年当時)を再現したフィギュア。
    メジャー1人、ピッコロ1人、フルート1人、クラリネット3人、アルトサックス1人、テナーサックス1人、トランペット3人、トロンボーン3人、ユーフォニウム1人、チューバ(スーザフォン)1人、スネアドラム1人、バスドラム1人、シンバル1人 計19人
    左上は実際の譜面の縮小コピーで、人形1つ1つが小さな譜面立てを持っています。

    正社員以外は音大のエキストラ(東京音大、国立、武蔵野、洗足など)で来ていた人が多い。
    その場でメジャーとパートリーダーが教えるOJT方式。ただ楽器が好きとか上手いだけでは出来ない。楽譜の初見が出来るだけでなく、パレード時の動作(気を付け、休め、進め、止まれ、回れ右、右向け右、左向け左)楽器の上げ下げなど多くの決められたサインを短時間で覚え、それに合わせて動かなければならない。(度胸やその場の変化に対応出来る強さが重要)最初はものすごく緊張するし、歓迎演奏で一度も吹けない人も居た。
    しかし常連で来ている人もたくさんおり、音大生のときから解散日まで音楽隊として勤めた人もいた。
    83年に本家ディズニーのバンドのオーディションがあり、転職した人もいたが、ドリームよりずっとハードで1日7回本番(当時)があり、雨天決行であったという。(雨の日もアーケードのような所で演奏)
    暗譜はもちろん、本番の間に練習があり、同じアドリブをやると怒られるので、転職後にドリームに遊びに来た際もアドリブをずっと考えていて大変そうだった。

    • パレードコースについて

    パレードコースはそのシーズンや年によって変わる。前述の通り、1日3回あり、同じコースを1日のうちに通ることはなく、曲の内容も同じではない。
    開始時間は11時、13時半、15時。1回30分程度で15分前に笛が鳴って着替えて曲を準備する。
    ※パレードの一例(1984年4月29日(祝) 開園20周年記念パレード(11時の回)の場合)
    コースはドリーム銀座前、駐車場横から、正面入り口でファンファーレと君が代演奏。噴水の前を一周、パルテノンで立奏、大海賊の方を向かい、野外ステージで立奏、ドリーム銀座をくぐり抜けて終わる。1回約30分。
    (ドリーム銀座を通過する場合と通過しない場合がある)


    地図はドリームランド・メモリーズより『昭和59年版地図』を拝借。

    • 団体客の歓迎演奏 

    団体客などが来ると、歓迎の立奏が行われた。
    場所はパルテノンゲート(宮廷庭園は人気のスポットだった)が多かった。準備が早くできた場合は正面ゲートや宮廷庭園内の噴水前、園内にお客さんが散らばったときはパレードに変更など流動的に変えていた。
    当時は何時頃に到着するか連絡の手段がなかったので、団体が来ると、おそらく駐車場から電話がかかってきていた。遠足や修学旅行など子供の団体客が多く、アニメの曲などを演奏した。
    修学旅行(地方中学・高校など)は夢のホテルなどに泊まって東京観光・江ノ島・鎌倉などに行くのに都合が良いのでドリームランドに遊びに来ることが多かった。
    団体数が多い日は、パルテノンで演奏し、次の団体客が来るまでパルテノン横の事務所(後のスーベニアショップとどんぐり共和国⇒迷子センターの建物?)で待機していた。朝からお昼近くまで演奏することもあった。

    • パレード・歓迎演奏以外での活躍

    野外ステージでは、外部のショーなど催物が多く、その前座などでよく演奏していた。
    エンパイアの中での演奏、裏庭(小さなステージがあった)のビアガーデンなどでもパレートとは別の衣装での演奏を選抜メンバーで行った。
    期間限定的な簡易ステージ(期間限定で園内のいたるところに作られた。)を広場各所に設置し『板付』と呼ばれる椅子に座っての演奏を行った。夏には毎日花火の前にパルテノン前での板付があり、84年には選抜メンバーが生演奏をした。
    木下大サーカスが来た際は、春日神社の前の駐車場にテントを立てており、その中でも演奏したがとても暑かった。パチンコデール前やドリーム系列のパチンコ屋(大和、上永谷)の前で新台入れ替えの際の演奏などもあったが、開店すると並んでいたお客さんは最後まで聴かずに店に入ってしまう。

    • 出張演奏について

    音楽隊はドリームランド内だけでなく、都内、横浜近辺でよく出張演奏を行っていた。昔の話では新潟に2週間出張したらしい。
    基本的には楽堂に朝集合し、前の道にバス(ドリーム観光バスやマイクロバスなど)を止めて楽器を運び入れ、出張先に向かっていた。出張演奏時も15~20人くらいの編成で行き(分かれてやることは出来ないため)、出張演奏とドリームランドが重なった際は出張演奏を優先していた。
    毎年出張演奏では横浜みなと祭り(ゴールデンウイーク)に出ていた。神奈川県警の音楽隊や消防などと一緒の出番の日であった。

    新宿サブナードが完成した時は、伊勢丹方面の階段に整列して、西武新宿方面側にむかって行進した。地下街ですごく音が響いた。
    ドリーム内ではパルテノン神殿を上る階段が数段あったが、階段を通る際は演奏しない振り付けになっているが、サブナードの際はイントロ以外は階段を降りながら吹かないといけなかったので怖かった。

    • 音楽隊の音楽以外の仕事

    音楽隊は楽譜係、消耗(品)係(隊員は消耗係と呼んでいた)、衣服係、楽器係などに分かれていてどれかを担当していた。夏服は最初は白地に水色でパン屋さんや床屋さんのようなデザインに見えて不人気だった。
    衣装係になった際、夏服のデザインをする機会があり、夏服のデザインが採用され、
    その衣装は音楽隊最終日まで使われた。赤を基調とした上着(半袖)と、白いズボン。
    (冬服は黒いズボン)帽子も赤で、ツバがついたもの。メジャーの人は白い帽子。
    メジャーの帽子だけは、最後まで使われている物と一緒であったようである。
    ステージや、楽堂内の譜面棚、バスドラムのカッティングシート、譜面立ての加工などは全て修理部門(メンテナンス班)が作成していた。

    • 音楽隊の楽堂とは

    楽堂はシャトルループの裏にあたる園外の建物。駐車場の細い道を挟んだ前。(パレードコース地図参照)
    シャトルループができる前は、同場所(ちびっこ動物園だった)の裏に繋がる専用出入り口から楽器を運び入れ、
    歓迎演奏を行っていた。楽堂自体もさらに昔は少し場所が違ったらしいが、建物ごと移動した。
    (※
    60年代の住宅地図だとハイツになった真裏に詰め所が確認できるが、78年当時の楽堂はシャトルループ裏より少し奥の位置から、数十メーターの建物ごとの異動があったとのこと。開園当初、音楽隊が2編成だったということもあり、詰め所が2箇所存在したり、引越しも数回あったと思われる。)

    2002年の楽堂の様子。音楽隊解散後はこちらの会社が入っていたようだ。沿革にも記載されている。

    ▼楽堂内 間取り図(※クリックで拡大)



    20人以上の隊員で練習が出来るよう、広く大きな造りになっている。
    2段高くなっているスペースの一番後ろがパーカッション(太鼓部屋前横にドラムが1台固定されていた)スーザフォン、チャイムなどが置かれていた。チャイムは重いので演奏の際に使う音だけ運んだりした。

    • 解散

    89年8月31日に正規の音楽隊は解散になった。
    内々的なことであり、一般告知はされていない。(しかし、最終日曜日(8月27日)の演奏は台風で中止になり、実質は前日の26日だったと思われる。)お客さんには一見わからないが、解散後の音楽隊が出るイベントはその都度エキストラバンドなどを呼び編成していたようだ。
    音楽隊は音楽隊としか交流しない人がほとんどであったし、音楽隊としてのみをやっていた公演係はこれ以降ほとんどいなくなったが、別の部署に異動になってアトラクションを動かすスタッフになった人もいる。
    ちなみにヘイヘイおじさんは当初ワンダーホイール担当だった。

    音楽隊時代の数々のエピソードは、アルテ・カペレ練習日記様のブログ記事をご覧ください。
    ※編集予定あり。

    ⇒取材その2を追加しました。



    楽譜も入れていた、当時のドリームランドの封筒。

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